才能の見つけ方(住宅特集0406)

 

芥川賞が掲載されている文藝春秋を手にした。受賞作は、こんな文章があったのかと唸らせる不思議な魅力に満ちあふれたもので、選評もまた刺激的であった。

なかでも、金原ひとみ氏への選評に強く興味をひかれた。村上龍は、細部が凡庸なことが本当に欠点なのだろうかと問い、突出した細部ではなく、破綻のない全体を持つ小説もあると推薦理由を述べる。宮本輝は、作品全体がある哀しみを抽象化しており、そのような小説を書けるのは才能というしかないと書く。この細部を見るのではなく、全体を包み込む才能をあえて評価しようとする姿勢が、非常に新鮮であった。

ふと我にかえると、そういった意識で才能を発掘したり、地平を切り開いているのだろうかと思う。設計や批評において、細部ではなく、全体が醸し出す雰囲気を意識しているだろうかと。勿論、小説と建築を並列に語ることできない。しかし、この選評の背後に隠された知の構造に、うらやましさとすがすがしさを感じたのである。

建築雑誌に掲載されることの意味とは何か?そして建築メディアの評価軸は?そこで見いだされるべき才能は、社会とどう結びつくべきだろうか?。僕には、今日本の建築界で行われていることが、一本に繋がっている気がしないのだ。大学教育においても、建築家内での議論においても。

最近ヨーロッパへ行くと、彼らはとても素直に建築に向き合っているように感じる。それは確かに新しくはないかもしれない。しかし、僕には筋が通っているように見える。建築への視座の広さの違いだろうか。日本には、近視眼的違和感がある。細部を見て全体を見ようとしていないのだ。

という理由で、この選評は、最近一番建築に関して、深く考えされられた出来事であった。 


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