「つながること」と「つなげること」(intercommunication)

ICC「コネクティング・ワールドー創造的コミュニケーションに向けて」展評

ハノイの街にいる。クラクションが絶え間なく鳴り、二人乗りをしたバイクが列をなして通りすぎる。かすかな記憶の片隅にある、古きよき日本を思い起こさせる街。一日中無数のバイクが街中を占拠する、何十年も前にタイムススリップしたような、懐かしい匂いと騒音。

そんなサンダル履きでバイクに相乗りするようなハノイでも、屋台を覗けば、携帯の着せ替えカバーを売っている。古いパソコンが店先にならんだインターネットカフェもどきの店もあるし、パソコンとプリンターをつないだだけのプリクラ屋台もある。ここは、四○年前の日本と現代が同時存在している街なのだ。

経済的な二重構造でできあがっているアジアの街だと言えば、それまでである。しかし、その根底には、僕たちが今持っている「つなげることの意識」が表れているように感じたのだ。

「つながる」のなら「つなげたい」。それが、僕たちの価値基準を揺るがせている。携帯にかかる費用はもはや必然である。家に財布を忘れても戻らないが、携帯を忘れたら用事をパスしてでも戻る。携帯やインターネットが出来ることが前提で、そこからコミュニケーションがスタートするとでもいいたげな雰囲気がそこにはある。まるで「つながらない」ことへの不安が、判断基準となっているかのようだ。

ICCがオープンしてもう9年経つという。オープニングの「海市」展で、リレーワークショップのメンバーとして参加したことを思い出す。僕たちは会場でネットをつなぎ、インターネット新聞らしきものを作った。ICCのブロードバンド環境のすごさに皆驚嘆し、自宅の通信環境を憂いた。「つながること」はまだ夢の時代だった。高度情報社会や双方向通信・移動体通信について話したり、どう身体化されていくのかを議論したりしたものである。

しかし、情報化とそれがもたらす意識の変革は、驚くべきスピードで「つながること」を身体化させていった。特にここ数年の変化は激しく、「つながること」を前提とした話をせざるを得ない。もはやその意味を話す必要がないのだ。むしろ、かつて「つながっていなかった」ことを説明しなくてはならないことすらある。わずか9年しか経っていないのに、である。

 

ICCリニューアルオープン後の初めての企画展である「コネクティング・ワールドー創造的コミュニケーションに向けて」を見て、メディアアーティストたちと話したことは、ハノイで感じた「つなげることの意識」と近かったと思う。それはメディアアートが、テクノロジーとの蜜月を超えてしまったという話から始まった。メディアアートの技術的アイデアは、ある程度完成されてしまっている。そういった黎明期は足早に通り過ぎて、その先の時代へと突入しているのだと。

では、メディアアートとして括る意味はどこにあるのだろうか。思えば、ICCは「インターコミュニケーション」を扱うミュージアムであり、メディアアートにこだわる必要はない。そうした実に当たり前のことを再認させてくれたのが、僕にとっての「コネクティング・ワールド」展であった。ああ、だからこそ、今「つながる(つなげる)世界」なのかと。

展覧会の紹介文を改めて読むと、「コミュニケーションとは、人と人との間の自覚的なものだけではなく、人と機械、モノ、生体などの事象が自動的に連結されていくもの」と書かれている。今、僕たちにとって大事なことは「何とつながるのか」「何とつなげたいのか」なのだ。そこには、媒体対象の区別ない。すべての事象の関係性に、これからどういった意志が介在していき僕たちの価値基準を揺るがせていくのだろうか。そう考えると、「コネクティング・ワールド」展は、非常に分かりやすい視座を、たちに与えてくれている展覧会であることが見えてくる。

 


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