正多角形と自然体 / 府中の家:堀部安嗣(住宅特集0509)

 

巻頭文4ページに作品3題で24ページ。8月号はちょっとした堀部安嗣特集である。 堀部さんの長い文章は読んだことがなかったので、まずは大変興味深く読む。

「建築は動かない」というテーマについては、かつて原稿を書いたことがある。それは僕なりに建築とは何かを考えて出たひとつの答えであった。建築はじっとそこにとどまっているからこそ、僕たちはその意味を考えねばならない。堀部さんの文章には、建築の本質をめぐる彼の思考が丁寧にトレースされていた。ただ僕は建築が動かないからこそ、意識上で揺れ動かしたいと考えてきた。しかし、彼の言説はより哲学的なものであったと思う。「懐かしい」という後ろ向きに捉えられがちな概念をポジティブに使うことで、建築のレーゾンデートル(存在意義)を獲得しようとしているのかもしれない。

まるで小説のような文章には、彼の建築らしい静けさと重厚さがあふれていた。ああ、こういう思考があるからこそ、彼の建築の魅力があるのだと再確認させてくれる文章であった。思考の結果、知の大系としての建築がある。かつての建築論に通底する感覚があり、文字通り懐かしい。一見「もの派」にみえる堀部建築だが、実は抽象的な建築であることをこの誠実な文章は示している。そしてそれを彼は巧みに包み隠しているのだ。

 

「由比ヶ浜の家」は昨年見せていただいた。旗竿地の奥にむりやり詰め込まれた五角形建築は、その内部の不思議な分割と相まって、求心的な厳格さの「八ヶ岳の家」とは異なる空間体験であった。二階のシンメトリカルな寝室の大きな窓から見えた月夜の風景が、五角形の空間の把握しづらさと対照的な強烈な印象を残していた。アンビバレンツな認識の建築。確かに五角形は暴れん坊という印象だった。

今回は、六角形の美しいプランに魅せられて「府中の家」を見せていただくことにした。発表された三つの多角形シリーズの最初の作品であるという。おそらく五角形の方が空間的には面白いが、この多角形シリーズの本質はこの長男の六角形にあると思ったからだ。

京王線の駅から歩いてほど近い敷地に、「府中の家」は幅広いグリーンベルトに隠れるようにひそやかに建っていた。門はなく、車が2台ほどつめられそうなスペースが空いている。住宅というよりも別荘のような立ち方である。外観をあまり見ないで、すぐに大きな両引き扉をあけると、エントランスは天井高2mほどしかない。ピシッと寸法が抑えられていて、正面の壁にはなにもない。玄関というよりポーチといった感じの空間である。

左側奥のコンパクトな階段をあがってまず2階へ。六角形のリビングは間仕切りがなく、実際の面積以上に広く見える。大きな開口から緑が見えて、とても東京とは思えないスペース。構造が見えているので、一見ラフな別荘建築のように見えるが、化粧野地板の工業精度や建具の施工精度の良さがそのイメージをほどよく中和させて、別荘でもなく住宅でもない両義的な場の雰囲気を作り出している。

キッチンに立つと全てが見渡せて、両サイドの作業スペースと連続した使い方が可能な、工場のように機能的なプランである。にも関わらず、雰囲気としてはいかようにも使える暖かさがある。料理教室やパーティーなどで使われている様子を写真で見せていただいたが、六角形の空間は実に豊かな表情を見せていた。

上階の開放感をたっぷり味わったあとで、1階のプライベートスペースへ。実は一階のプランにとても興味を持って「府中の家」を選んだ。プランの中心に寝室があって、その周りに水回りや倉庫や玄関が張り付いている。寝室にはまったく窓がない。穴蔵のような、テントのような暗い空間は、でもなぜか落ち着いた気持ちのいい空間だった。安全性を考慮してこの位置にあるのだそうだ。確かにここは、安心という言葉で表現できる胎内的空間なのかもしれない。寝室にはたくさんドアがついていて、どこへでも行ける。クローゼット、倉庫、玄関を通って戻ってこれる。写真家の住宅という特殊な機能がそのまま形になった機械のようなプランである。

住宅の中心に寝室があるというプランを僕は初めて見た。もちろん世界のどこかにはあるのかもしれない。そんな知らない文化の住居を訪問したような感覚にさせられた。

実は寝室の外側のゾーンにもほとんど窓がない。だから1階は、あたかも地下のように感じる。外観を想像させるものがまるでないからだ。2階も同様で、屋根がその全てのイメージを決めている。120度の角度は視線をほどよく逃がし、目をとどめさせない。これは早草睦恵さんの「120度の家」と同じなのだが、「府中の家」はその視線がすっと動いて一周してしまい、中心にはなにもない。視線が宙づりにされたような感覚のある空間だった。

訪問を終えて、この多角形が何であるのかを考えた。勿論、コーナーを切り取ることや敷地の残余の効果は堀部さんの説明の通りである。だがもっと重要な意味があると思ったのだ。「府中の家」は、エレベーションの印象が薄かった。巻頭文にも立面を考えたくないという一節があった。図式はあるのだが、計算された立面がない。

堀部建築は内側から外に向かっていくことが多い。全てが内側の論理で決められていく。その動きを自動的に止めているものが正多角形なのだと思う。もちろん四角でもよい。だが正多角形の方がより図形の強度は高い。つまり動かないのだ。堀部さんは正多角形によって、文字通り建築をその場へ止めていこうとしたのだ。柔道の自然体のような建築を作るためのオートマチズム。すぐに動き出せそうで動かない形。だからこそ僕は五角形の「由比ヶ浜の家」より六角形の「府中の家」に惹かれたのだと思う。(吉松秀樹)



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